待機児童ゼロ・無償化という闇

時機を逸してしまったが、毎年年度末には待機児童問題がクローズアップされる。こんなことをこんな時期に思い出したのは知り合いが育休を明けて復帰したためである。

 

自分にも子ども(現在小二)がおり、幼少時には妻とともに共働きで子どもは保育園に通わせていた。その後、私の仕事の事情で妻は退社をしたのだが、それは別の話である。当時は今ほど休業制度はなかった。

 

さて、本題に戻って待機児童問題なのだが、社会一般的には待機児童ゼロを目指すのが良いとされている。更に無償化されることも良いこととされているように見える。

 

待機児童の話は色々な観点が入り交じっている。主な論点は女性の社会参画、少子化対策、所得の減少あたりであろうか。父子家庭、母子家庭や病気などにより保育に頼らざるを得ないという場合もあるが、このような場合は優先して預けることができるのが一般的なので待機児童ゼロとは切り離して考えても良いであろう。

 

では、待機児童ゼロというのが、これらの観点から本当に適当かという点で検証してみたい。

 

1 女性の社会参画

 男性は働いており、女性は育児にあたる必要性を迫られることから、子どもは保育園に預けられないことは女性の社会参画を妨げるというものである。

 果たしてそうであろうか。夫婦共働きで幼児がいるとした場合、合理的な選択をとるとした(短期的な観点のみならず長期的な観点で)所得が高い方が働き続けることになる。基本的な前提となっている男性が働き続ける、女性の所得が相対的に低い、という点に問題があるのではないか。

 例えば、年収150万円の人のために社会福祉として保育を行政が丸抱えするのが適正であろうか。もちろんキャリアを積み上げた方々にとってキャリアの断絶に問題は確かにあるのだが、制限的な働き方をしてどれほどの評価を得られるだろうか。もちろん前向きにとらえる人もいるのであろうが、そのような人物は相応のコストを払えるのではなかろうか。将来的な所得を期待できるのであろうから、一時的な赤字も耐えうるだろうことを付記しておきたい。そしてそうでない方が、たかだか数年間、行政が多大なコストを支払って大変な仕事と育児の両立を実現したところで何が得られるのだろうか?

 保育園の立場から見てみても、とにかく保育が必要な人がたくさんいて、その人たちは支払能力が高いわけではなく、単に行政からの費用によって賄われている。つまり保育園の収入は行政の胸三寸になる。このような状況にあれば保育士の所得が低くなるのは当然なのではないか。そして、その人たちが子を持って、子を保育園に無償で預ける。この場合、保育士を公務員にしないかぎり、極一部の高付加価値化に成功した園以外は、負のスパイラルから抜けられない。

 以上のことを考えれば、女性の社会参画に待機児童ゼロという施策は直接的な効果を得るものではなく、非常に婉曲的な施策であると言えよう。むしろ、人材流動性の向上や働き方の柔軟化などの方が効果的である。更に言えば共働きを続ける場合、学童保育の手の届かない小四の壁の存在により、いずれキャリアを離脱することも多いだろうことを述べておきたい。

 

2 少子化対策

 子育てが大変だから、負担を軽減しようというものである。そもそも幼児期が大変だから子作りをしないという人はいないのではないか。

 

3 所得の減少・不足への対応

 片方が働いていては思うほど稼げないので、あるいは、これまで働いていて急に止めると所得が急減してしまうので、少しでも足しになるようにするために働こう、そのためには子どもを保育園に預けなければならない、というものである。

 この際、相当のキャリアを有した稼ぎのいい人は除いて考えたい。そのような場合は保育園にコストをかけれる上に、両親ともに働かなくてはならない必然性が低いと考えられるからだ。

 ではその場合、低調に押さえられている給与所得を補うために、妻(あるいは夫)は働きにでて多くはない金額を稼ぐことになる。他方で、認可保育園の運営にあたっては1、2歳時で一人あたり135,000円程度、それ以上でも7万円程度の補助金が毎月支給されるそうである(一次ソースにあたってない。)補助金の支給にあたっては更に行政コストや親にとっても保育園に預けるための経費が相応に生じている。これは適正な状態であろうか。

 多くの親にとっては例えば一人あたり数万円の児童手当の上乗せがあったほうが幸せなのではないか。そしてこの方が全体としてコストが低廉ではないか。

 

以上を総合すると、相当のキャリアを有したもの以外には保育園というのは不要であり、行政が行うべきは待機児童ゼロやあるいは無償化ではなく、雇用の流動化や保育園の競争環境の構築ではないか。そもそも待機児童ゼロというのは最大需要に合わせた供給を求めるもので、どこかで需要を供給が上回り倒産が相次ぐという減少が生じるであろう。それは多くの失業者を生む。

 もちろん廉価な保育園というものがあっても良いと思われるが基本的な経済原理を超えてまで社会保障の枠組みに入れるのは、些か行き過ぎた社会保障費の負担を生じさせるのではないか。

 

 どこまで負担すべきか、社会保障の中では冷たくもあるが、必要な線引きである。このような議論が行われず、過大な保障をしつつ、片方では財源の不足が叫ばれる。待機児童ゼロ、無償化は誰のために何のためするのか、あまり深く議論されない問題の闇は深いのではないか。

あいちトリエンナーレについて思うこと

はじめてのはてブロである。

 

あいちトリエンナーレについて表現の自由、不自由という議論があるが、このような論点は恣意的に作られているように感じている。

 

あまり議論には出てこないのではあるが、行政の基本的な性格として政治的中立でなければならないということは、皆さんあまり異論はないのではないかと思う。例えば、後援名義を出す際もその行事に政治的中立性は当然に求められているが、今回は主催だ。

 

他方、慰安婦像の展示というものが政治色を帯びているのも、あまり異論はないのではないか。

 

この二点を組み合わせれば、そもそもこのように展示するだけで、政治的な意味を持つものを展示する企画が行政の事業として開催に至ってしまったということが問題であると言える。

 

要は、事業の契約時にそのような抑制をかけなければならないのであるが、それがなされておらず(あるいは契約自体はそうなっているが、展示内容に気づかなかったか。)、開催後に気づいて慌てて取り消したということである。

 

このようなことから表現の自由や検閲といった批判にはあたらず、基本的には行政事務に瑕疵があったととらえるのが正しいのではないか。